片手鍋

ある精神障碍者による、セルフケアと生活設計のためのブログ

金銭管理

親から生活費として月4万円もらっています。医療費も交通費も飲食費も美容院代も洋服代もその他あれこれのお金も、すべてここから出します。

出費の中で大きいのは国民年金です。毎年4月に1年分全部払ってしまうのですが、これが約18万円。きちんと貯めておかないと出せません。月4万円のうち2万円はこのために貯めておきます。年間24万円貯まる計算ですが、差額の6万円は急な出費のために取っておきます。靴の底に穴が開いたりとか下着が擦り切れて使い物にならなくなったりとか財布の小銭入れのジッパーが壊れたりとか、そういう事態はいつ起こるかわかりません。急に風邪を引いて熱を出した、とかもあります。

そんなわけで実質月2万円でいろいろなことをやっていかなくてはなりません。電車・バス代はだいたい3か月で1万円かかるので残高が500円切ったあたりで1万円入金するとか、2か月に1回の精神科の医療費は自立支援も使って薬代込みで約1000円とか、そういう定期的かつ絶対必要なお金をちゃんと出していくと、結構ぎりぎりです。スタバでコーヒーと何か食べるもの、とかはわりと贅沢。おやつは時たま夕飯の買い物のついでにスーパーで買ってくる、みたいな感じです。

以前は煙草を吸っていたのですが、やめました。健康のことを考えて何度かやめようとしたときはやめられず、結局月々の貯金が底をついてはじめてやめられました。健康よりお金の方が切実だったんでしょうか。それにしても今でも結構金銭的にはぎりぎりなのに、吸っていた頃はどうやってお金をやりくりしてたんでしょうか。全然覚えてません。

わたしが医者に望むこと

とにかくちゃんと診断してくれること、ちゃんとした薬を出してくれること、必要な検査を受けさせてくれること、必要な診断書なりなんなりの書類をちゃんと書いてくれること、そのくらいです。そこさえちゃんとしていれば、あとはわりとどうでもいいです。

以前は「自分のことをちゃんとわかってくれること」を重要だと考えていたのですが、かえってそれはまずいということを身に染みて感じた経験があります。昔かかっていた医者にはレズビアンですとカムアウトしていたのですが、そうしたら周囲にカムアウトしろしろと異様な強要を受けました。それは嫌だとわたしが言ったところ、逆切れされて「あんたは人を見ていない。人を見なさい」とか訳のわからないことを言われ、患者としての関わりを絶たれました。まあそういう異様な対応をする人間に対してカムアウトしてしまった自分もどうかと思うのですが、しかしこれは何なんでしょう。ちなみに診断された病名は「鬱病」でした。統合失調症をまともに診断できない時点で、もう医者として駄目でしょう。

今の主治医にはカムアウトしていません。必要がないからです。ちゃんと眠れているか、ちゃんと薬は飲んでいるか、そういうことは診察のたびに聞かれますが、必要なことなのでちゃんと答えます。セクシュアリティのことは何も聞かれませんし言いません。それで何の問題も生じていません。処方された薬をちゃんと飲んで、日々おおむね穏やかに暮らしています。障害者手帳の更新手続きのときも、何事もなく診断書を書いてくれました。これでいいのです。何の問題もありません。これ以上何も望みません。

Questioning/Queer

このあたりとか見ると、統合失調症持ちのLGBTって結構いるんだなあ、って感じなんですけどね。

わたしは10代後半の頃から、結構長く自分のことをレズビアンだと思ってきましたが、最近はちょっと違うように思えてきてまして。ていうかまあ女好きはいいとして、レズビアンというにはちょっと男子に萌えすぎるような気がするし。かといってバイセクシュアルを名乗るには、男性への感情というのは希薄すぎる、非常にあいまいな感じなんですね。今のところは「クエスチョニング」ということにしています。この先はっきりしてもしなくても別にいいや、みたいな。

そもそも「他人と性的関係を持つ」ということに執着があんまりない。別に一生なければないで構わない、くらいに思っています。それでもAセクシュアルを名乗らないのは、一応は性欲というものがあるからですが、生活実態からするとAセクと思われても別にいいような気がします。まあストレートかクィアか、という問いであれば、クィアであるとは答えたいんですが。そこだけはガチ。ほかは全然ガチじゃない。

精神障害者の性を語る、とはいっても

いえ、「精神障害者の生活」について云々するとき、それなりに重要なテーマであるとは思うんです。が、しかし。

セックス20年くらいしてません。したいとも思いません。

過去にはおつきあいしていた人もいたし、まあ全くの処女というわけではないのです。一応ひととおりのことはやりました。しかしその後は何もなく、それで何も困っていないのです。そもそも障害者であれ健常者であれ、「普通、セックスとはするものだ」という常識(これも最近無効になりつつあるのかな)の方が変でしょう。別にしなくても生活に全く支障はないし。ていうか実際やってみて思ったけれども、わたしはセックス下手ですし、そちら方面の向上心もさほどないんですよね。さらに言えばもうこの年になってしまうと、性行為にまつわる諸々というのは別に生活の中でそんなに大きくないんです。将来あるであろう親の介護とか自分の老後とか、そっちの方がよほど大きい。

性行為云々はおいといて交際相手は欲しくないのかと言われると、これもまたどっちでもいいというか。そもそも他人とかかわるということにあまり熱意を持てないし。健常者相手の人間関係がうまくいくとも思えないし、かと言って障害者同士でもそんなに付き合う気にはなれないし。

ただ、あるところでクリスチャンの精神障害者の人が書いていたのを読んで、さすがにこれはちょっと、と思ったのは、「セックスにはAIDSなどの性病のリスクがある、だから結婚してからの方が安全だし、自分は童貞で安全だ」みたいなことです。これ、精神障害の当事者が読むものに書かれてたんですが、どうだろうね、HIVポジティブで鬱持ちの人(それなりにいると思うけど)がこれ読んだら。現状日本では法的に結婚できない立場の人もこぼれるし、セックスワーカーの人もこぼれるし。しかもこれが「当事者の声」として一定の説得力を持ってしまう、ということに違和感を感じます。わたしは今の自分には相手ありのセックスは必要ないと思っていますが、こういう言い方だけはしたくありません。健常者であれ障害者であれ、どのような立場の人であれ、当事者双方の同意があればセックスする自由があり、より安全なセックスのための知識と技術を得る権利はあるべきだ、ただ今の自分はそういう自由を行使したくないだけだ、とは言っておきたいです。

自助グループ?

精神障害関係の文章を読んでいると、自助グループ的なものが、あたかも素晴らしいものであるかのように言われていることがあります。同じ病気/障害を持つ仲間に出会えるとか、生活の様々な事柄に共感したりされたりできる、とか。

わたしはそういうものに参加する気があまりありません。病院のデイケアにも参加していませんし、市の保健所に併設のセンターみたいなもの(正式名称忘れた)もあるのですが、そちらにもかかわっていません。

以前ネットで、どこかの地域でやっている自助グループのメンバーの人が、いかにも幸せそうに「精神障害で孤独な皆さん!」と語り掛け、自分の属しているグループがいかに(自分にとって)良いものであるかを熱弁しているのを読んだことがあります。どう受け取っていいものか困りました。確かにわたしは周囲に同じ障害を持つ人がいない生活をしているけれども、別にそれで悩んだりはしていないし、ひどい孤独感にさいなまれたりしてもいないのです。わたしの障害はわたしのものですし、わたしが自覚的に負っていくものでしかありません。周囲が全員健常者であるとしても、逆に周囲が全員わたしと同種の障害を持った人間だとしても、それは同じことです。

また、アルコールや薬物などの各種依存症や摂食障害などの当事者の場合、自助グループは非常に有効でありうるでしょう。しかし、わたしの障害は統合失調症であり、脳の障害なのです。誰に共感されようとも、誰に出会おうとも、「治る」ということはないのです。比較的穏やかな状態を保つのに必要なのは、薬です。グループではありません。

もっとも、自分と比較的似通った障害の人と比べることで、自分の障害やそれに対する対処法がわかりやすくなる、ということはありえます。そういう意味ではグループの「メリット」はあるのかもしれません。でも、それなら別に、当事者の書いた文章、ブログとかでよくない?という感じもします。実はそのあたりの狙いがあって、わたしも自分のブログを公開にしているのですが、「文章を介して」とか「ネットを介して」とかいうあたりの距離感が、わたしにとってはいちばん楽な感じなのです。

ていうか、自助グループはいくつか経験して、自分で立ち上げたこともあったけれど、そういえば得た物ってそんなになかったよなあ、みたいな実感がどうしても先に立つので。あと、どうしても合わない人というのは出てくるわけで、そういうときの対処というのがわたしは非常に苦手です。そういう意味でもなるべくかかわりたくないなあ、と思ってしまいます。

妄想のある愉快な暮らし

詳細をここで言うのは控えておきたいのですが、わたしは「今の自分とは生い立ちからして全然違う人物」の人生の細部を妄想するのが大好きです。

そのときにものすごく役に立つのがインターネット。

あるとき「その人物が、まあ小学校低学年あたりが妥当な線だろうと思うけれども、親からお小遣いをもらうとして、それはどのくらいの額がいいのか」ということを調べたことがあります。わりと多いのは「学年×100円」でした。ではいつごろからがいいのかなと思って、「自分でお金の管理ができる年頃はいつか」→「小遣い帳を自分でつけられるあたりがいいのかな」→「ならばお金の計算が自力でできるのはどのくらいの年頃か」、ということで「3桁の数の足し算・引き算」を算数の時間に習うのはいつかを調べたところ、小学校3年生だそうです。こういうことばかり調べています。

ほかにも「1か月くらいの長期の旅行で秋のヨーロッパへ行くときに、衣類はどんなものを持っていけばいいのか」とか、「80年代前半からファッション雑誌を読んでいたという設定で、当時のオリーブとかmcシスターとかはいったいどんな内容だったのか」とか、「フランスに住んで税金を納めるとして、かなり稼いだ場合の所得税というのはいったいどれくらいなのか」とか、まあ自分の中にはわりと細かい設定があるんですが一見するとかなりとりとめのないことばかりを調べています。わりと楽しいです。

最近は「土日も含めて多忙な人は、スケジュール管理をいったい何をどうやってすればいいのか」というテーマでいろいろ調べて、手帳の種類とか使い方とかをさんざん見た挙句、現実にはそんな厳しいスケジュールで動いていないのに、ウィークリー・バーチカルタイプの手帳を買ってしまいました。2015年までまだちょっと間があるというのに。だって東急ハンズでもう来年の手帳のコーナーできてたんだもん。

でもまあ妄想は妄想です。わたしの中の当該人物について、キャリアとか人生設計とか特技とか性格とか、まあいろんな細かい設定はいくらでもあるんですが、でも実際に健常者(というのも設定です)の人が何をどう感じてどう動くのか、現実吟味能力とか情報処理能力とかいう次元の事柄が、わたしには実感として一切わかりません。その点でかなり限界を感じることはありますが、まあ基本的には楽しい遊びです。これが病的な妄想なのか健常者の人も嗜む程度のものなのか、その線引きをどこにするかはわかりませんが、とりあえず妄想であることに自覚的であればいいのかなあ、と思っています。

文章書きとわたくし

ブログを始める前には、他人に見せない文章を毎日書いていました。日にもよりますが多い日で1日15000字とか。1年と数か月続けたら、ある日突然書けなくなって、それから精神状態が一気に悪化しました。

その後はてなダイアリーの方でブログを始めました。最近になって久々にその頃の文章を読み返しましたが、これほどまでにまとまったものが書けていたのかとちょっと感動しました。原稿用紙にして6~7枚くらいの文章で、3日に1回更新していたら、1年後に突然鬱になりました。

そのブログをやめてから6年ぐらい経って、今のブログを始めました。文章量は1000字前後、週1回更新、あまり深い文章は書けません。以前と比べるとだいぶ書く能力は落ちましたが、まあ今のわたしには相応か、という感じです。

限界を知らずにやり過ぎると確実に精神状態が悪化し、そうすると確実に能力が落ちる、ということがわかってきました。今くらいの負荷だと、無理をしているという感じではありません。まあ続くうちはぼちぼち続けようか、と思っています。

ひとつ以前とだいぶ違うのは書く内容です。以前のブログでは内容を限定せず、まあ多いのは趣味の音楽のこととジェンダー/セクシュアリティ系の事柄で、そのときタイムリーな話題にもわりと食いついていました。それでその筋のわりと有名な書き手の方のアンテナに入れてもらったり、そういうこともおそらくあってわりと読者がついたんですね。今のブログの内容はほぼ障害のことに限定しています(この先どうなるかはわかりませんが)。時事的なことも書いていません。おかげでかなり地味な、承認欲求がどうのこうのとかとはかなり無縁なブログ生活を送っていますが、まあそれはそれでいいか…と、ここまで書いたあたりで力尽きるのが現在のわたくしでございます。