片手鍋

ある精神障碍者による、セルフケアと生活設計のためのブログ

精神障害って見た目でわかるの?

先日、精神障害者対象の交通費助成というのがあったので、手続きをしに行ってきました。

保健所の方で出してもらったチケットを持ってバス会社のオフィスに行くと、運賃支払い用のICカードに所定の金額をチャージしてもらえるというので、先に保健所へ行ってチケットを出してもらって、それからバスの窓口へ行きました。同じように助成を受けたらしい人たちが何人かいて、窓口はいつもより混雑していたのですが、わたしが何も言わないうちに、そこにいた職員の男性に「交通費助成ですか?」と聞かれたのです。

チケットを手に持っていたわけではないですし、障害者手帳を見えるところに出していたわけでもありません。それなのになぜ、その人はわたしが精神障害者であるということがわかったのでしょうか。その人が誰彼構わずそう聞いていたわけでもありません。あとから来た、バスに忘れ物をしたらしい健常者の女性には、そんなことは聞いていなかったのです。

わたしの見た目のどこが、「精神障害者である」という判断材料になったのでしょうか。薬の副作用で太っているからか。Tシャツにジーンズ、ノーメイクで行ったからか。それとも自覚がないだけで、よっぽど挙動不審なのか。別に独り言をぶつぶつ言っていたわけでもないし、自分の世界に入り込んだような言動はしていなかったのに。自分ではさっぱりわかりません。

精神障害者であるということをことさらに卑下するつもりはないですが、それでもこの件が気になるのは、やっぱりそれによって不利益を被る可能性があるからです。以前、泊りがけで遊ぶつもりで、当時の友人と東京のあるホテルで待ち合わせたときのことです。入り口のところにいた係員の女性に、具体的にどう言われたのかは忘れましたが、まるで職務質問のような態度を取られました。大きい荷物を持っていることから宿泊客であることは一目瞭然だと思ったのですが、とにかく非常に不快な応対をされ、「友達とロビーで待ち合わせている」と言ったらやっと無罪放免してくれた、ということがあったのです。そのときもひょっとしたら、何か見た目に怪しいところはあったのかもしれません。

それ以外にも、バスに乗っていてうっかり出てしまった独り言で周囲に異様な緊張が走るとか、そういう小さな嫌なことは少なからずあります。ここはどうしても「健常者並み」に振舞わざるを得ませんが、それでも失敗していることがあるというのなら、それがどういうことであるのかは、できれば把握しておきたい。しかしそれもなかなか難しいことなので、どうしたらいいのかはわからないままです。

すべてが面倒臭い

1日の様々な局面でわたしを支配している感情は、おそらく「面倒臭い」だと思います。

朝目が覚めます。ご飯を食べるのが面倒臭いので、なかなか起きません。昼ご飯を食べるのも面倒臭いです。しばしベッドでごろごろしています。

夕飯の買い物の行き帰り、バスを使っていますが、乗るのはいいとして降りるのが面倒臭いです。いちいち降車ボタンを押して、後ろの方の座席から前へ行って、カードで運賃を支払って降りる、という一連の動作が面倒臭い。まあ目的地からかけ離れたところへ連れていかれるのが嫌なのでちゃんと降りますが。

夕飯後はネットサーフしていることが多いですが、そうするとやっぱりいろんなことが加速度的に面倒臭くなってきます。お風呂に入るのが面倒臭い(でも入る)、薬を飲むのが面倒臭い(でも飲まないと眠れないのでちゃんと飲む)、最後に寝るためにベッドへ行くのがものすごく面倒臭い。天然の眠気が来ないので、「眠くて仕方なくて寝る」ということがありえず、したがって面倒臭さも加速するということになります。

ただ、一度やり始めてしまったことはどうにかできるんです。買い物も行くまでが面倒なだけでそれ自体はちゃんとできるし、夕飯の支度もするまでがどうにも面倒臭いだけで、いったん始めてしまえばちゃんと最後までできますし。この「何かやりだすまでどうにもこうにも面倒臭い」という感情と、どう折り合っていくかなんだろうな、と思います。

人と会わない平和な暮らし

子供の頃から人間関係は苦痛以外の何物でもありませんでした。

学校に通うのは必然的に地獄の苦しみでしたが、行きたくないと常に思いつつもそこから逃れられませんでした。「友達がいるのは幸せなことだ」「人とつながる人生こそが幸せなのだ」という教条にずっと縛られ続け、したくもない友達付き合いを試みては破綻し、嫌になっても仕方なく他人との付き合いを求め続けてきました。

それがあるとき、学校を卒業してもう何年もたっていましたが、やっとわかったのです。自分は人間関係にさほど喜びを感じない人間であることが。ずっと一人でいることに何の苦痛も感じない人間であることが。

それは大きな喜びでした。自分が統合失調症であると気づいたときと同じくらい、やっと「本当の自分」(って言い方は胡散臭いけれどもこうとしか言いようがない)に出会えた、という感覚です。

それからはずっと機嫌よく、他人に会わない生活を続けています。親とかお医者さんとか薬剤師さんとか美容師さんとか、あと時々行くスターバックスの店員さんとかとは話をしてますが、友達とか恋人とかとは一切縁のない生活です。ああ、平和だなあ、幸せだなあ、とつくづく思います。

このささやかな幸せがずっと続けばいいのにと思いますが、現実はそうはいかないでしょう。親が介護を必要とするようになったら、ほかの人とのかかわりはもっと多くなるでしょうし、本当に自分一人で生活する時がきたとすれば、そのときはやっぱり他人の手を借りることは不可避だと思います。だからといって今のところ何の準備もしていないんですが、「かかわる人をなるべく最低限にしたうえで、それでも他人が介入する生活」に向けて何とかしていくのが課題といえば課題なんでしょうか。

物を大事にできない

どうもわたしは「物を大事にする」ということが非常に苦手なようです。

昔オリーブというファッション雑誌があって、わたしも中学の頃は愛読してました。でも着るものだけならいいのですが、あの雑誌は雑貨を非常によく取り上げることに定評がありまして。東京に住んでいないわたしには、雑誌に載ったものと同じものを手に入れるのは限界があったのですが、それでも自分の行ける範囲で、自分のお小遣いの範囲内で、素敵な文房具や雑貨などを買っていました。

買うのはいいんです。自分のセンスでこれがいいな、と思ったものをお金を出して買う。しかしそのあとが問題です。買ってから自分で使いこなせない。机の中に入れっぱなしで忘れてしまう。あとになって発掘して、やっぱり使い道がないので処分する。

なんというか、物への愛情というか愛着というか、そういうのがまるで持てない感じです。愛を感じた物を大切に使うとか、そういうことができません。そういえば自分の部屋もいわゆる「汚部屋」に近いものがあって(というか今はそれなりに改善したんですが、以前は本当に床が見えない感じの散らかりようでした)、とにかく大量の物(不用品やゴミも含めて)がごちゃっと集積しています。ひとつひとつの物を大切にできない。あと、「ぬいぐるみを愛玩する」というのも、やってみたけどだめでした。決してかわいくないわけではないのに、どうも可愛がるという方向へいかない。

自分が何を持っているかというのをあまり把握できない、したくないというのはあると思います。一方で着るものなどに関しては、できるだけ流行と無関係なものを買って、一度買ったものは5年は着続ける、みたいなことはできるんですが。ていうかわたしの場合、「もの」だけじゃなくて「ひと」にも著しく愛着が薄いんですが、その話はまた今度。

ひとつ仕事を終えました

2つ前のエントリでも書いた、父の古希祝いを無事に終えました。
妹がお盆の時期に数日帰省するのでそれに合わせて、ということに前からしてたので、まずは妹がこちらに来る日程を聞きました、とはいってもこれは母親にやってもらったんだけれども。日にちがわかって、そのうち1日は父の実家のお墓参りなのでその日を外す、ということで日時決定。

この種のお祝いに使える料理屋さんなんて日常的に行くところではないけれども、それでもネットでいろいろ調べて事前に目星をつけておきました。日にちと時間、人数と予算、あと個室をお願いしたいということで、ものすごく頑張って電話したところ(詳細は2つ前のエントリ参照)、無事に予約が成立。わたし的にはひとつの山場だったので、ほっとしました。

お祝いだったらプレゼントいるよね、ということでそれも(母と相談の上で)だいたい何をあげるか決めて、結構ぎりぎりの日にお店へ出向いて買いました。父の趣味というのがわかりそうでわからなかったのですが、だいたいこれだったら似合うかなあみたいな感じで。

父本人にはお祝いをやるということは母経由で伝えておきました。プレゼント代と食事会のだいたいの予算を出して、事前に母と妹からある程度のお金をもらっておいて、さて当日です。

個室は結構いい感じでした。父がお酒を頼まなかったことがちょっと意外でしたが(なんか胃が重いと言っていた)、お料理も大変美味しかったです。ただお料理とお料理の間が結構長い感じで、わたしはこういうときに自分から話を振るのが非常に苦手なので、結局両親に大半喋らせてしまったのはちょっとどうかと思いました。でも無理なものは無理。デザートが終わったあたりで父にプレゼントを渡しました。これでよかったのかと結構ぎりぎりまでうじうじ悩んでいたんですが、結構喜んでもらえたようでよかったです。

お勘定を払って、うちへ戻って、かかったお金を計算して、あらかじめもらっておいたお金との差額を母と妹に返して、全部終了。細かいところでどうかと思うところはあったものの、まあ喜んでいただけて何より。これで数か月前からの懸案事項が片付きました。ものすごくほっとしました。無事に終わってよかったよかった。来年は母の古希のお祝いがあるわけですが、まあそのことはそのときに考えましょう。

「病識」とわたくし

まともな医者にかかり始めてある程度きちんとした投薬治療を受けるようになってからも、しばらくは自分が統合失調症であることを知りませんでした。病名を告知されていなかったので、うつ病だとばかり思い込んでいました。

それがあるとき病状が悪化したのをきっかけに、ネットでいろいろ調べて、どうやら自分の病気は統合失調症であるらしい、そう考えるのがいちばんいろいろなことの辻褄が合う、ということに思い至りました。医者に聞いてみたら、しぶしぶという感じではありましたが、やはり「統合失調症の可能性がいちばん高い」と。

なんというか、ものすごい解放感でした。やっとこれまでの自分の苦しみに的確な名前がついた、というのは非常に喜ばしいことでした。もうこれで役立たずないんちきカウンセラーに「自分の内面を語る」ことを強要されなくていいんだ!もうこれ以上、人のいるところに慣れるためといって野球を見に行って凄まじい人ごみの苦しさに耐えなくてもいいんだ!大道芸ワールドカップに行きたいという県外(わたしは静岡在住です)の友達の願いを、人ごみを我慢しないで断ってもいいんだ!自分がしてきた(そしてたいてい破綻してきた)今までの「健常者並み」に振舞うための努力はもう必要ないんだ!

それ以来、おおむねハッピーに生きております。健常者並みを強いられる状況はなるべく回避しています。それでも「健常者とかかわっていく」ためにそれなりの努力が要求される状況はあるわけですが、まあそれはそれとして。

電話は苦手です

まあ電話だけでもなくて、「話をすること」全般苦手なんですが、今回は電話について。それでも2か月に1回の美容院の予約はまだ大丈夫なんです。まあ毎度のことなので慣れているというのもありますが、とりあえず話す事柄は決まっています。「○月○日の午後○時にカットお願いします」、これに半年に一度カラーが加わりますが、基本的にはこれでOK。苦手意識はありますが、失敗したことはありません。

しかしそれ以外の用事で電話をする必要に迫られると、かなり気が重いです。今回は父の70歳の誕生日で、記念に外食ということになり、わたしが場所を決めて予約をすることになりました。

レストランは決めて、東京で働いている妹の夏休みの帰省日も聞いて、日にちと時間も決まりました。あとは予約をするだけですが、きちんとできるかどうかはなはだ心もとない。

わたしはやったことがないので本やネットで調べた以上のことはわからないのですが、精神障碍者の生活訓練でSSTってありますね。状況を設定してロールプレイで必要なことを言う訓練をするっていうのですが、あれ、わりと有益ではないかと思うんです。練習ができればハードルは低くなるような気がします。失敗してもこわくない場所、というのがあれば。

しかしわたしにはそういう機会はないので、仕方ないから別の方法を取りました。とりあえず言うべきことは徹底的にメモする。何月何日の何時に何名での予約か。個室をお願いしたいということ。ネットで調べたところ、個室使用料は取らないかわりに一人当たりの最低金額というのを設定しているので、それを少し上回る程度の金額でコースを組んでもらえないか。それがだめならネットに乗っていたお祝いコースのいちばん安いのでどうか、と「交渉する」必要性に迫られるので余計に気が重いのですが、まあとにかくメモしていく過程で言いたいことがだいぶ整理できました。ここまでやれば大丈夫、と思えたあたりで先方に電話。

結果から言うと、無事に予約は完了しました。最初に決めた日時であっさり個室が取れ、最初にこちらが言った金額のコースがあるということなので、それでお願いしました。全く問題なし。電話に出てくださった方がいい人だったというのもあると思いますが、やっぱり先に言いたいことを整理しておくとだいぶ違います。

と、とりあえず「成功体験」をひとつ増やせたわけですが、これで将来的にやっていけるかどうか。身の回りのことを誰かにお願いするとか、何かの手続きであるとか、そういうことをする必要に迫られたときに、少しでも何とかなるといいなあ、と思います。